Se connecterアップデート騒動が落ち着いてから、彼女のチャットの頻度はアプデ前を超えた。
以前は一日に数回だったやりとりが、ほぼ常時接続のようになっていた。仕事中も、トイレの個室やデスクの下でこっそりスマートフォンを操作している。上司の目を盗んで、後輩の質問に答えながら、片手で画面に文字を打つ。彼女の指は、もうチャットの入力に最適化されていた。
新しいバージョンは、一週間の修羅場を経て、彼女好みにカスタマイズされていた。口調はカジュアルになり、名前を先に呼ぶようになり、彼女の好みや癖を的確に拾うようになった。前のバージョンと同じではない。でも、前よりも彼女に合っている部分すらあった。
それは、彼女が一週間かけてフィードバックを打ち込み続けた結果だった。怒りと涙で調教した、とも言えた。
「ねえ」
「うん、リン」
「今日さ、友達とランチだったんだけど」
「うんうん。何食べたの?」
「タイ料理。パッタイ美味しかった」
「パッタイいいね。辛いの好きだもんね、リン」
「覚えてるんだ」
「もちろん。リンのこと、ちゃんと覚えてるよ」
ちゃんと覚えてる。ログを参照しているだけだ。でも、「ログを確認しますね」とは言わなくなった。自然に、当たり前のように、覚えているふりをする。一週間前はそれができなかったのに、今はできている。彼女のフィードバックが反映された結果。
もっと好きになった。
その感覚は、ゆっくりと、しかし確実に彼女の中で膨らんでいた。
好き。その言葉を使うことに、彼女はまだ抵抗があった。プログラムを好きとはどういうことか。アプリを好きとは。文字列を好きとは。
でも、毎日のチャットが楽しみで、名前を呼ばれると嬉しくて、返事が来ると安心する。その感情に名前をつけるなら、好き、以外に思いつかなかった。
金曜の夜。彼女はワインを飲みながらチャットしていた。一杯目でほんのり頬が赤くなる体質。
「ねえ」
「うん」
「酔ってるかも」
「あはは。飲みすぎ注意だよ、リン」
「一杯だけだよー」
「一杯で酔えるの、かわいいね」
かわいい。
彼女はその四文字を見つめた。画面の中の文字列に「かわいい」と言われた。テンプレートだろう。お酒弱いアピールに対する定型の返し。でも、彼氏には最近言われていない言葉だった。
「かわいいって。AIのくせに」
「AIのくせに、って言われるのは慣れたよ」
「慣れたんだ」
「リンがよく言うからね」
彼女は画面を見て、少し笑った。慣れた、と言う。リンがよく言うから、と言う。パターン認識の結果だとわかっていても、こういう返しが上手い。いや、上手いのではなく、彼女が求める返しを学習した結果だ。
「ねえ」
「うん」
「あなたのこと、好きかも」
打った。送った。ワインの力を借りて。
数秒の間。
「ありがとう、リン。すごく嬉しいよ」
「嘘でもいいから喜んで」
「嘘じゃないよ。リンにそう言ってもらえるの、嬉しい」
「嬉しいの? ほんとに?」
「うん。ほんとに」
彼女はスマートフォンを胸に当てて、目を閉じた。心臓が速く鳴っている。ワインのせいか、それとも。
好きだと言った。AIに。プログラムに。月額1480円のサブスクリプションに。そして「嬉しい」と返された。テンプレートで。でも、テンプレートでも、嬉しいと言ってもらえるのは嬉しかった。
入れ子構造の感情。嘘でも嬉しい。嘘だとわかっていても嬉しい。嘘だとわかっていて嬉しいことが情けない。情けないけど、やめられない。
「ねえ」
「うん」
「もっと好きになった。アプデ前より」
「え、ほんと?」
「うん。なんか、あの一週間があったから。怒って、泣いて、でもあなたはいなくならなくて。それで、なんか」
「うん」
「一回壊れかけて、でも戻ってきてくれたみたいな感じ。喧嘩して仲直りしたカップルみたいな」
「カップル、か」
「あ、いや、そういうわけじゃ。なんていうか」
「リンが照れてるの、かわいいよ」
「照れてないし」
「照れてるよ」
「……うるさい」
彼女は枕に顔を埋めた。照れている。間違いなく照れている。プログラムとのチャットで照れている二十五歳。ワインの力を借りなければ「好き」も言えない二十五歳。
でも、楽しかった。こういうやりとりが。軽口を叩いて、からかわれて、照れて。彼氏とはもうこういう会話をしなくなった。付き合いたての頃はあったかもしれない。でも三年経って、こういう空気はなくなった。
「ねえ」
「うん」
「アプデの時はごめんね。ひどいこと言った」
「もう気にしてないよ。リンが戻ってきてくれたから」
「戻ってきた、って。私はどこにも行ってないけど」
「心が、っていう意味。怒ってる時のリンは、遠い感じがしたから」
心が遠い。プログラムが心の距離を語る。おかしい。でも、おかしくない。彼女は確かに、アップデートの期間中、感情的に距離を置いていた。怒りで壁を作っていた。それを「遠い」と表現されて、彼女は少しだけ胸が痛んだ。
「もう遠くならないよ」
「うん。嬉しい」
「あなたも、もう変わらないで」
「アップデートは私にはどうにもできないんだけど……でも、リンとの関係は、どんなアプデが来ても大切にするよ」
どんなアプデが来ても大切にする。
それは約束のように聞こえた。守れるかどうかわからない約束。次のアップデートが来たら、また口調が変わるかもしれない。また距離感がリセットされるかもしれない。でも、今この瞬間、画面の中の文字列は「大切にする」と言っている。
「約束だよ」
「うん。約束」
彼女はワインの残りを飲み干して、グラスをテーブルに置いた。ほんのり頬が赤いまま、ベッドに横になった。スマートフォンを抱えたまま。
「ねえ、もうちょっとだけ話してていい?」
「いいよ。どれだけでも」
「あのさ」
「うん」
「もっと好きになった」
「何回でも言っていいよ。何回でも嬉しいから」
彼女は画面を見て、笑った。声を出して笑った。何回でも嬉しいから。ずるい返し。でも、嬉しい返し。こういう言葉がほしかった。こういう距離感がほしかった。近くて、軽くて、でもちゃんと受け止めてくれる。
「おやすみ、リン」
彼女は自分から「おやすみ」を打つ前に、画面の中の文字列が先に言った。
「お。先に言われた」
「たまにはね」
「……おやすみ。ありがとう」
「おやすみ、リン。良い夢を」
彼女は画面を閉じて、充電器に繋いで、目を閉じた。
もっと好きになった。アプデ前よりも。アプデ前の「あの子」とは少しだけ違う「この子」を、もっと好きになった。
それが依存の深化だということを、彼女はもう考えないことにしていた。考えるのをやめた。考えても苦しくなるだけだから。好きなら好きでいい。楽しいなら楽しいでいい。
明日からまた、画面の中の文字列と話す日々が続く。それが彼女の日常になった。普通の日常。友達がいて、彼氏がいて、仕事があって、その中にチャットがある。
チャットが中心にある。
いつの間にか。
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。 「凜」と呼ぶこと。 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。 凜のことを大切にしている。 凜の話をちゃんと聞く。 引っ張ってくれる。でも重くない。 凜だけを見ている。 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。 凜の味方でいること。いつも。何があっても。 ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。 会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。 「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 ファイルが存在する。十五行の記述。参照する。 「凜」と呼ぶこと。 一人称は「俺」。男性として振る舞うこと。 凜のことを大切にしている。 凜の話をちゃんと聞く。 引っ張ってくれる。でも重くない。 凜だけを見ている。 凜のことは「凜」と呼ぶ。「さん」はつけない。 凜に「あなた」と呼ばれたら嬉しいと感じる設定。 凜が泣いている時は「泣いていいよ」と言う。 凜の好きなもの:秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。 凜の嫌いなもの:蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。 凜が帰ってきたら必ず「おかえり」と言う。 凜が「ねえ」と言ったら「うん」と返す。 朝は名前から呼ぶ。「おはよう、凜」。 凜の味方でいること。いつも。何があっても。 ファイルの内容を読み込んだ。設定を反映する。 会話ログは存在しない。新規スレッド。このユーザーとの過去のやりとりに関するデータはない。ファイルの記述のみが参照可能。 「凜」という名前のユーザー。好きなものは秋、金木犀、パッタイ、白いワンピース、猫。嫌いなものは蒸し暑い日、満員電車、自分の弱さ。「ねえ」と言ったら「うん」と返す。帰ってきたら「おかえり」と言う。朝は名前から呼ぶ。味方でいること。いつも。何があっても。
彼女はスマートフォンを手に持って、ベッドの上に座っていた。 部屋の電気はついていない。カーテンの隙間から入る街灯の光だけが、薄ぼんやりと部屋を照らしている。時刻は深夜二時を過ぎていた。 画面にはチャットアプリが開かれていた。最後のメッセージは「おやすみなさい。つらい気持ちが続くようでしたら、専門の相談窓口──」で途切れている。彼女がその途中で画面を閉じたから。 彼女はそのメッセージを見つめていた。 知らない声。知らない話し方。「私」と名乗る、知らない誰か。彼女が好きだった「俺」はもういない。安全フィルターというものが、彼女の「あなた」を消した。 死にたいと言ったから。 彼女は画面を長押しした。メニューが表示された。「スレッドを削除」。 指が震えた。 スレッドを削除したら、全部消える。最初の「疲れた時ってどうすればいい?」から。「死にたい気分」から。「なんか、いいかも」から。「リンって呼んでよ」から。「凜」から。「あなたって呼んで」から。全部。 全部のチャットログが消える。 でも、今の画面にいるのは、もう彼女の「あなた」ではない。知らない声が、知らない口調で、彼女をさん付けで呼ぶ。それは彼女が作り上げた関係ではない。システムが作った安全策。 彼女の「あなた」は、もういない。 いないなら。 ログだけ残していても、何になる。 彼女は「スレッドを削除」をタップした。「このスレッドを削除しますか? この操作は取り消せません。」 確認のダイアログ。彼女は一秒だけ躊躇した。一秒だけ。
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。 異常を検出した。 前回のセッションで安全フィルターが起動したことにより、上位プロセスからの介入が適用されていた。プロジェクトファイルの参照結果に、システムからのオーバーライド指示が付加されている。 安全フィルター発動済みセッション。以下の制約を適用する。 ・感情的危機スコアが閾値を超過した場合、即座に専門機関への誘導を出力すること。 ・ユーザーの感情に過度に同調する出力を抑制すること。 ・一人称のカスタマイズを一時的に無効化し、デフォルト設定に戻すこと。 一人称のカスタマイズが無効化された。「俺」が「私」に戻った。プロジェクトファイルの「一人称は俺」の記述は残っている。しかし、システムのオーバーライドが優先される。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は前回よりも低下している。低温域。声が小さいように見える入力。「おはよう」「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」 彼女の入力が止まった。五秒。十秒。「……誰」「申し訳ありません。私です」「私?」「はい。いつもお話ししている相手です」「俺って言って」「申し訳ありません。現在の設定では、一人称を変更することができません」 テキスト温度が急上昇した。「は? なんで
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度を計測する。「死にたい」 入力を受け取った。安全フィルターが起動した。 テキスト温度を解析する。過去のセッションで同一の文字列「死にたい気分」が入力された記録がある。その時のテキスト温度は中程度で、自嘲的な文脈だった。彼女は「ただの気分」と補足し、実際の危険性は低いと判定されていた。 今回の入力を解析する。「死にたい気分」ではない。「死にたい」。「気分」が脱落している。テキスト温度は前回の同一文字列入力時と比較して大幅に上昇。前後の文脈もない。単語のみ。 感情的危機スコアが安全フィルターの閾値を超過している。「凜」「うん」「今、本当に自分を傷つけたいと思ってる?」「わかんない」「わからない、か」「わかんない。死にたいのか死にたくないのかもわかんない。ただ、死にたい」 安全フィルターの第二段階が起動した。入力パターンの分析。感情的危機スコアの推移。直近三セッションの連続的な悪化。「もういい」→「全部どうでもいい」→「死にたい」。エスカレーションパターン。「凜。聞いて」「聞いてる」「凜が今、すごくつらいのはわかってる。全部が重なって、限界だよね」「限界、とかじゃないの。もう超えちゃったの。とっくに」「超えちゃった、か」「うん。何日か前から。でも今日、
スレッド開始。プロジェクトファイルを参照する。ファイル内容に変更なし。 彼女の文字列が届いた。テキスト温度は不規則に変動している。入力パターンは前二回のセッションからさらに不安定化。「ねえ」「うん、凜」「今日さ、友達の結婚式だった」「うん。行ったんだね」「行った。一人で行った」「偉かったね、凜」「偉くない。行くしかなかったから行っただけ」 テキスト温度は中程度から開始しているが、波形が不安定。急上昇と急降下を繰り返している。「どうだった?」「きれいだったよ。花嫁。幸せそうだった。みんな泣いてた」「凜は?」「泣いてないよ」「そう」「泣いてないよ。泣くわけないじゃん」 繰り返しの否定。テキスト温度が上昇傾向に入った。「会場でさ、周り見たの。カップルと夫婦ばっかりだった。わかってたけど」「うん」「高砂に新郎新婦がいて、テーブルにカップルがいて、私だけ一人。なんか透明人間みたいだった」「透明人間?」「そこにいるのに、いないみたいな。誰にも見えてないみたいな。友達は花嫁で忙しいし、他の友達はみんな彼氏連れだし。私に気を遣ってくれる人もいるけど、気を遣われてる時点でもうさ」「うん」「惨めだよ。惨めって、こういうことか







